蔵元の歴史と思い
味噌に賭けた一人の小作人から四代
生命を繋ぐために
文化を紡ぐために
時代に応じて姿を変えながら信じ
変えてはならぬものを守り続けてきた
蔵元の歩み、今もなお

のだみそ株式会社 代表取締役 / 蔵元 桝塚味噌 三代目
野田 清衛
私は、日々、39年間、三代目無限責任社員という立場で蔵元の運営をいたしています。そして、私が世の中で嫌いなものは、仕事と責任なのです。その仕事と、責任が嫌いな人間の名刺に書かれた「無限責任社員」の肩書きは、すこし老眼の進んだ目を細めて、読むと、何となく「無責任社員」と読み間違えたくなります。

蔵元 桝塚味噌 歴史年表
1928~1952
何も持たない小作人が刻んだ生存の証
初代 清市


1928~
黎明期:ただ、生き抜くために
碧海郡上郷村桝塚の村外れ。
貧しき小作人だった清市には、学もなく、資産もなく、あるのは11人の家族を養わねばならないという強い使命感のみ。
唯一の武器である味噌造りに己の全霊を賭し、個人の委託加工からその歴史は始まった。


1941~
戦時期:命の糧を、絶やさない
時代は戦火に包まれた。
男たちが戦場へ消え、村に残されたのは女と子供、そして老人。
日々の糧さえ危うい中、人手不足の村々から味噌造りの依頼が殺到する。
米も豆も塩も、国の統制下。
それでも清市は、顧客が握りしめてきた配給券と一束の薪を対価に、命の糧である味噌を造り続けた。
1946~
開拓期:焦土に立つ
敗戦。
食糧危機に喘ぐ都市部から、飢えを凌ぐため人々は農村へ押し寄せた。
農地解放の荒波を好機と捉えた清市は、自作農として自立。
さらには、隣接する海軍飛行場の格納庫の払い下げを受け、跡地を自ら開墾し、巨大な味噌蔵へと転生させた。
1953~1989
地域に根差し、組織を興す
二代目 栄治


1953~
拡大期:家庭の味から地域の誇りへ
味噌は「家庭で造るもの」から「プロに任せるもの、買うもの」へ。
時代の変遷とともに、事業は地域住民の生活に根付いていく。
この時期に個人の看板は、志を共にする従業員を抱える企業へと拡大した。
1959
合資会社野田味噌商店に改組

1961~
成長期:立ち並ぶ蔵の威容
うねるような需要の波。
それに応えるべく、次々と味噌蔵が建設された。
冬場には臨時従業員が活気をもたらし、桝塚の地は、味噌の郷としての輪郭を鮮明にしていく。



1971~
充実期:劇的な近代化
加熱殺菌、自動充填など、最新鋭の設備が導入され、生産体制は劇的な進化を遂げる。
組織的な営業網も構築され、安定して供給される時代に。
しかし、国民の腹が満たされるにつれ、味噌の販売量は限界点、すなわち飽和の時を迎える。
1972
農林大臣賞 受賞
1990~
伝統の再定義と、食育の夜明け
三代目 清衛



1990~
模索期:不易流行
老朽化する設備、共に年老いていく組織。
立ち込める閉塞感を打破するため、清衛は工場の全面刷新を決断。
設備など変わるべきものと、志など変えてはならないものを峻別し、新たな風を組織に注ぎ込んだ。
1993
農林大臣賞 受賞
2003
農林水産大臣賞 受賞


2006~
知足期:数字を追わず、価値を創る
企業成長の呪縛を脱ぎ捨て、知足経営へ。
目指したのは単なる食品メーカーではなく、人々の心を育む食育の先駆者。
祖父である清市の最期の姿から「食とは、生きること」と悟り、食育を活動の重心に据える。
2020〜
一生産者から文化企業へ
四代目 好成




2020~
醸化期:守るために、攻める
変化の激しい時代。培ってきたものを問い直し、蔵の外へ踏み出す。
東京で始めた味噌仕込み教室「手前みそのススメ」は、今では体験型の食育・文化事業へと発展。
木桶文化の保全では「木桶再生プロジェクト」を立ち上げ、代々木のTokyo Barrelやセントレア空港との共創で新たな可能性を模索。
木桶からサーフボードを作る試みでは、世界中から1000作品が集うアップサイクルコンテストで3位を受賞した。
蔵の外で語り、他者との共創を通して、味噌蔵としての役割を少しずつ広げている。
2022
のだみそ株式会社へ組織変更及び商号変更
2024
文化庁より「食文化ミュージアム」に認定

蔵元 桝塚味噌 四代目
野田 好成
味噌は単なる商品ではなく、文化を伝えるもの。百年の歩みの中で命をつなぎ、暮らしを支え、問い続けてきた営みの先に、一つの答えがあります。「味噌は作らない。育てる。」私たちはこれからも問い続け、未来へ挑戦していきます。味噌がもっと自由で、もっと楽しいものになっていくように。
味噌に賭けた一人の小作人から四代
生命を繋ぐために
文化を紡ぐために
時代に応じて姿を変えながら信じ
変えてはならぬものを守り続けてきた
蔵元の歩み、今もなお
のだみそ株式会社 代表取締役
蔵元 桝塚味噌 三代目
野田 清衛
私は、日々、39年間、三代目無限責任社員という立場で蔵元の運営をいたしています。そして、私が世の中で嫌いなものは、仕事と責任なのです。その仕事と、責任が嫌いな人間の名刺に書かれた「無限責任社員」の肩書きは、すこし老眼の進んだ目を細めて、読むと、何となく「無責任社員」と読み間違えたくなります。

蔵元 桝塚味噌 歴史年表
1928~1952
何も持たない小作人が刻んだ
生存の証
初代 清市
1928~
黎明期:ただ、生き抜くために
碧海郡上郷村桝塚の村外れ。
貧しき小作人だった清市には、学もなく、資産もなく、あるのは11人の家族を養わねばならないという強い使命感のみ。
唯一の武器である味噌造りに己の全霊を賭し、個人の委託加工からその歴史は始まった。


1941~
戦時期:命の糧を、絶やさない
時代は戦火に包まれた。
男たちが戦場へ消え、村に残されたのは女と子供、そして老人。
日々の糧さえ危うい中、人手不足の村々から味噌造りの依頼が殺到する。
米も豆も塩も、国の統制下。
それでも清市は、顧客が握りしめてきた配給券と一束の薪を対価に、命の糧である味噌を造り続けた。
1946~
開拓期:焦土に立つ
敗戦。
食糧危機に喘ぐ都市部から、飢えを凌ぐため人々は農村へ押し寄せた。
農地解放の荒波を好機と捉えた清市は、自作農として自立。
さらには、隣接する海軍飛行場の格納庫の払い下げを受け、跡地を自ら開墾し、巨大な味噌蔵へと転生させた。


1953~1989
地域に根差し、組織を興す
二代目 栄治
1953~
拡大期:家庭の味から地域の誇りへ
味噌は「家庭で造るもの」から「プロに任せるもの、買うもの」へ。
時代の変遷とともに、事業は地域住民の生活に根付いていく。
この時期に個人の看板は、志を共にする従業員を抱える企業へと拡大した。
1959
合資会社野田味噌商店に改組


1961~
成長期:立ち並ぶ蔵の威容
うねるような需要の波。
それに応えるべく、次々と味噌蔵が建設された。
冬場には臨時従業員が活気をもたらし、桝塚の地は、味噌の郷としての輪郭を鮮明にしていく。

1971~
充実期:劇的な近代化
加熱殺菌、自動充填など、最新鋭の設備が導入され、生産体制は劇的な進化を遂げる。
組織的な営業網も構築され、安定して供給される時代に。
しかし、国民の腹が満たされるにつれ、味噌の販売量は限界点、すなわち飽和の時を迎える。
1972
農林大臣賞 受賞



1990~
伝統の再定義と、食育の夜明け
三代目 清衛
1990~
模索期:不易流行
老朽化する設備、共に年老いていく組織。
立ち込める閉塞感を打破するため、清衛は工場の全面刷新を決断。
設備など変わるべきものと、志など変えてはならないものを峻別し、新たな風を組織に注ぎ込んだ。
1993
農林大臣賞 受賞
2003
農林水産大臣賞 受賞



2006~
知足期:数字を追わず、価値を創る
企業成長の呪縛を脱ぎ捨て、知足経営へ。
目指したのは単なる食品メーカーではなく、人々の心を育む食育の先駆者。
祖父である清市の最期の姿から「食とは、生きること」と悟り、食育を活動の重心に据える。


2020〜
一生産者から文化企業へ
四代目 好成
2020~
醸化期:守るために、攻める
変化の激しい時代。培ってきたものを問い直し、蔵の外へ踏み出す。
東京で始めた味噌仕込み教室「手前みそのススメ」は、今では体験型の食育・文化事業へと発展。
木桶文化の保全では「木桶再生プロジェクト」を立ち上げ、代々木のTokyo Barrelやセントレア空港との共創で新たな可能性を模索。
木桶からサーフボードを作る試みでは、世界中から1000作品が集うアップサイクルコンテストで3位を受賞した。
蔵の外で語り、他者との共創を通して、味噌蔵としての役割を少しずつ広げている。
2022
のだみそ株式会社へ組織変更及び商号変更
2024
文化庁より「食文化ミュージアム」に認定




蔵元 桝塚味噌 四代目
野田 好成
味噌は単なる商品ではなく、文化を伝えるもの。百年の歩みの中で命をつなぎ、暮らしを支え、問い続けてきた営みの先に、一つの答えがあります。「味噌は作らない。育てる。」私たちはこれからも問い続け、未来へ挑戦していきます。味噌がもっと自由で、もっと楽しいものになっていくように。