2018年07月19日


願正寺本堂前にて 1945(昭和20年)


戦争直後まで、地域には幼児保育環境がなくその代わりとして
お寺がその役割を担っていた。
小学校入学前の子供たちは近所の寺で地域の人々に育てられた。


有ること難し。 店主


2018年06月23日

「追憶」-18 戦前の子供たち3



昭和18~20年(1944~45)栄治(二代目)と富川紘一(友人)



昭和20~21年(1944~46)栄治(二代目)の三人の妹たち (綾子、美佐子、光代/従妹、日米治)


小学校の運動場は食料不足のため、サツマイモ畑になった。
胸には、氏名、住所などの必要事項が布に書かれていた。
そんな時代の中でも子供たちは、素敵な子供であった


有ること難し。 店主


2018年05月28日

追憶-17 戦前の子供たち 2



昭和15~16年(1940~41)栄治(二代目)の三人の妹 (綾子、美佐子、恵美子)



昭和15~16年(1940~41)栄治(二代目)


戦争が拡大する中、生活物資の不足は庶民の暮らしに影響した。
農村部では食料の充足だけで精一杯であった。
子供の衣服までは難しい状況となった。


有ること難し。 店主


2018年04月28日

追憶-16 戦前の子供たち 1



昭和11年(1936)三輪車に乗る栄治(二代目)と妹 (綾子)



昭和12年(1937)国民学校に入学した栄治(二代目)


昭和12年(1937)長男栄治(二代目)は国民学校に入学した。
忙しく働く清市とシヅエにひとときの喜びを与えた。
ランドセルを持たせ、記念の写真を撮る余裕が、まだあった。


有ること難し。 店主


2018年03月29日

追憶-15



出征する清市 昭和18年(1943)



出征時の清市 昭和18年(1943)


1943年(昭和18年)、清市のところに来た一通の赤いハガキによって、委託加工のみそ仕込は大黒柱不在となった。
清市は召集令状を手に、出征兵士の一員として住み慣れた家を旅立っていったのである。見送るシヅエは虚脱感で全く無表情であり、その当時小学生であった長男栄治は毎日ぽんつく(魚とり)で走り回っていた。
37歳の男まで招集される戦争に、もはや勝ち目はなかった。終戦の際、清市は千葉の海岸で本土決戦の為の塹壕(ざんごう)堀をしていたために戦死を免れ、玉音放送を聞く事が出来たことが清市にとって幸運であった。


有ること難し。 店主