2019年06月13日

蔵元写真館「追憶」29


製造の効率化と安定性を進めるため、仕込み用混合器を購入しました。
我々は設備会社の商品名「ゲーテ」(製造会社の社長がドイツの詩人ゲーテが好きだった)から、弊社内名「ゲーテ」と名付けました。
「ゲーテ」を使用して仕込みを行うと確実に効率と安定性が強化されました。



「ゲーテ」と仕込み改革(1955~1960)


有ること難し。 店主


2019年04月30日

蔵元写真館「追憶」28

順調に増加する委託加工仕込味噌の仕事だけでなく、今後は味噌販売にも注力の必要性を感じ、味噌製品のラインナップを進めた。
同時に事務所の建設をした。
対外的にも「味噌屋さん」から「桝塚・野田味噌」の表現を開始する。
愈々(いよいよ)、桝塚味噌ブランドの発足である。



「桝塚・野田味噌」ブランドスタートと事務所建設(1950~55)


有ること難し。 店主


2019年03月26日

蔵元写真館「追憶」27

1948年(昭和23年)春、満45歳になった清市にとって全てが順風満帆に成りつつあった。小作から自作農へ、また新田開発へ働けば全てが自分の手により摘み取る事の出来る時代なのである。
委託加工も順調に増加し、秋から冬にかけては、清市達はまだ冬の星が凛と瞬く午前4時頃から起きて、出来たばかりの払い下げ校舎の2階のムロ(製麹室)で味噌玉(麹)の手返しをするのであつた。



集まる委託加工の桶と蔵人(1948)


有ること難し。 店主


2019年02月26日

蔵元写真館「追憶」26


昭和22年になると戦争に行っていた二人の弟達も帰郷し、共に味噌造りをする事になった。次男の勇次は事業拡大の為に委託加工を請負に走り回り、三男の一三は味噌の品質向上に、そして学校を出たばかりの四男勇は設備の近代化へと、兄弟四人が清市の夢の実現へと少しずつ動き出した。



昭和22年(1947)当時のラベルと製品


有ること難し。 店主


2019年01月30日

蔵元写真館「追憶」25

昭和20年(1945)敗戦とともに日本中が混乱し、全てが失われた。味噌の委託加工は、食料不足のため急増した。国民全体が「生きるために食べる」ということに必死な時代なのである。
大豆、塩そして薪を積んだリヤカーが三河周辺の農家より毎日清市の家の前に並んだ。しかし、処理能力不足の為全部を処理できず、断るのに必死であった。清市達の味噌醸造は家族だけでは仕事をこなす事が出来ず、近所の村から蔵人を募集・採用した。



味噌仕込み風景 昭和20~22年(1945~1947)



蔵人集合写真 昭和20~22年(1945~1947)


有ること難し。 店主