2019年01月30日

蔵元写真館「追憶」25

昭和20年(1945)敗戦とともに日本中が混乱し、全てが失われた。味噌の委託加工は、食料不足のため急増した。国民全体が「生きるために食べる」ということに必死な時代なのである。
大豆、塩そして薪を積んだリヤカーが三河周辺の農家より毎日清市の家の前に並んだ。しかし、処理能力不足の為全部を処理できず、断るのに必死であった。清市達の味噌醸造は家族だけでは仕事をこなす事が出来ず、近所の村から蔵人を募集・採用した。



味噌仕込み風景 昭和20~22年(1945~1947)



蔵人集合写真 昭和20~22年(1945~1947)


有ること難し。 店主