2018年05月28日

追憶-17 戦前の子供たち 2



昭和15~16年(1940~41)栄治(二代目)の三人の妹 (綾子、美佐子、恵美子)



昭和15~16年(1940~41)栄治(二代目)


戦争が拡大する中、生活物資の不足は庶民の暮らしに影響した。
農村部では食料の充足だけで精一杯であった。
子供の衣服までは難しい状況となった。


有ること難し。 店主


2018年04月28日

追憶-16 戦前の子供たち 1



昭和11年(1936)三輪車に乗る栄治(二代目)と妹 (綾子)



昭和12年(1937)国民学校に入学した栄治(二代目)


昭和12年(1937)長男栄治(二代目)は国民学校に入学した。
忙しく働く清市とシヅエにひとときの喜びを与えた。
ランドセルを持たせ、記念の写真を撮る余裕が、まだあった。


有ること難し。 店主


2018年03月29日

追憶-15



出征する清市 昭和18年(1943)



出征時の清市 昭和18年(1943)


1943年(昭和18年)、清市のところに来た一通の赤いハガキによって、委託加工のみそ仕込は大黒柱不在となった。
清市は召集令状を手に、出征兵士の一員として住み慣れた家を旅立っていったのである。見送るシヅエは虚脱感で全く無表情であり、その当時小学生であった長男栄治は毎日ぽんつく(魚とり)で走り回っていた。
37歳の男まで招集される戦争に、もはや勝ち目はなかった。終戦の際、清市は千葉の海岸で本土決戦の為の塹壕(ざんごう)堀をしていたために戦死を免れ、玉音放送を聞く事が出来たことが清市にとって幸運であった。


有ること難し。 店主


2018年02月26日

追憶-14



集まる委託加工の桶の山(1943~1945)



配達用三輪車の清市(初代)と栄治(二代目)(1943~1945)


1941年(昭和16年)米穀(べいこく)食料品の配給制の実施により全ての食料品が統制下に置かれた。原料確保が難しくなっていた時期だけに、原料大豆や塩が買えない事は商売の存続を難しくさせたのである。しかし、増えてきた委託加工客も生きるのに必死であった。男達はだんだん戦場に駆り出され、農家には女、老人そして子供が残り、村の中でも出兵兵士を送る行列が見られるようになった。委託加工のお客様は配給券を持参して味噌の製造を我々に委託した。社会全体が混沌(こんとん)とした状況になっていたのである。


有ること難し。 店主


2018年02月01日

蔵元写真館「追憶」-13



松本家の葬儀(1943)



出征する義弟 近藤一男君(1944)


戦況が悪化する中、親戚でも戦死者が出る現実を迎える。岡崎の松本家の葬儀に参列し悲しみの中、弔った。そして、義弟(近藤一男)も出征をし、益々悪化する暮らしを余儀なくされる。


有ること難し。 店主