2019年03月26日

蔵元写真館「追憶」27

1948年(昭和23年)春、満45歳になった清市にとって全てが順風満帆に成りつつあった。小作から自作農へ、また新田開発へ働けば全てが自分の手により摘み取る事の出来る時代なのである。
委託加工も順調に増加し、秋から冬にかけては、清市達はまだ冬の星が凛と瞬く午前4時頃から起きて、出来たばかりの払い下げ校舎の2階のムロ(製麹室)で味噌玉(麹)の手返しをするのであつた。



集まる委託加工の桶と蔵人(1948)


有ること難し。 店主


2019年02月26日

蔵元写真館「追憶」26


昭和22年になると戦争に行っていた二人の弟達も帰郷し、共に味噌造りをする事になった。次男の勇次は事業拡大の為に委託加工を請負に走り回り、三男の一三は味噌の品質向上に、そして学校を出たばかりの四男勇は設備の近代化へと、兄弟四人が清市の夢の実現へと少しずつ動き出した。



昭和22年(1947)当時のラベルと製品


有ること難し。 店主


2019年01月30日

蔵元写真館「追憶」25

昭和20年(1945)敗戦とともに日本中が混乱し、全てが失われた。味噌の委託加工は、食料不足のため急増した。国民全体が「生きるために食べる」ということに必死な時代なのである。
大豆、塩そして薪を積んだリヤカーが三河周辺の農家より毎日清市の家の前に並んだ。しかし、処理能力不足の為全部を処理できず、断るのに必死であった。清市達の味噌醸造は家族だけでは仕事をこなす事が出来ず、近所の村から蔵人を募集・採用した。



味噌仕込み風景 昭和20~22年(1945~1947)



蔵人集合写真 昭和20~22年(1945~1947)


有ること難し。 店主


2018年12月12日

敗戦と海軍岡崎航空隊(桝塚飛行場)5


第二次世界大戦当時、この航空隊で沢山の若者たちが戦争を学び、殺し方や死に方を教えられ戦地に向かいました。現在、当時の格納庫や兵舎は味噌蔵として利用され、食育を通し、「生きること」を教えています。



彗星三三型(艦上爆撃機)



神風トレーナー(操縦練習用シミュレーター)


海軍岡崎航空隊にて連合軍による武装解除(1945,9,11)


有ること難し。 店主


2018年11月21日

敗戦と海軍岡崎航空隊(桝塚飛行場)4


第三航空隊(豊田市桝塚西町)は搭乗兵養成の目的で弊社の隣地に設置されました。現在弊社の味噌蔵として当時の格納庫、兵舎が利用されています。
第二航空隊と第三航空隊の間には、海軍航空廠岡崎補給工場が置かれた。ここでは半田市にあった中島飛行機株式会社で生産された艦上攻撃機「天山」・艦上偵察機「彩雲」の機体に機銃や通信機を取り付ける最終工程が行われていた。



一式双発高等練習機(略称:双発高練・陸軍機)



天山(艦上攻撃機)・彩雲(艦上偵察機)


海軍岡崎航空隊にて連合軍による武装解除(1945,9,11)


有ること難し。 店主