2017年04月25日

蔵元写真館「追憶」-4



「委託加工の仕込」    昭和5~6年(1930~31)


小作として稲刈りを終えると、藁半紙に『味噌の委託加工承ります』と書き、三河一帯を自転車の後ろに広告を縛り、妻シヅエと共にまわった。
各村々では、変わった事を始めたものだとか、そんな商売が成り立つものか、持ち逃げするのだろうと言われた。
だから、商売の前にまず信用されるのが第一の苦労であった。


有ること難し。 店主


2017年03月28日

蔵元写真館 「追憶」-3



「シヅエ結婚前」    昭和2年(1927)


上郷村桝塚の村外れ、貧しい小作の11人家族の長男清市にも春は来た。
昭和3年春、矢作村の神田より清市に縁談話があり、両家の親の同意のみで事はトントンと進み、シヅエと婚姻となった。
19歳の新妻シヅエは、結婚式の当日初めて目にする新郎清市を見て、「ああ、これが私の旦那様か。」と恋心も無く、しげしげと不細工な大柄な清市を見つめた。しかし、小作ではなく八反(はったん)の田を持つ自作農家へ嫁ぐと教えられてきた彼女は、別段生活の心配はしていなかった。


有ること難し。 店主


2017年02月27日

蔵元写真館 「追憶」-2



「清市独立を決意」   昭和2年(1927)  清市(左)


昭和2年(1927)清市21才、小作と人夫仕事では「このままでは我々12名の家族は生きて行けない。女房をもらっても食わせてやれない。」そう考えた清市は、身に覚えのある唯一の『味噌作り』を生活の糧(かて)として行こうと決意した。
しかし、当時味噌屋は庄屋か大金持ちの商売であった。それは莫大な資金と発酵した大豆を長期間成熟のため寝かせる場所を必要としたからである。そこで貧しいものが如何(いか)にできるか、商売にするかを考えた。
そして、彼の得た結論は味噌を売るのではなく、技術を売る事であった。

有ること難し。 店主


2017年01月28日

新企画 蔵元写真館「追憶」をスタートします。
我々蔵元 桝塚味噌(野田味噌)だけでなく、日本の歴史を写した未公開の写真を定期的にアップロード致します。時代を振り返る時、過去の多くの人々の、絶え間ない努力と犠牲の上に成り立つ現在の日々に、「ふっ」と感謝の念が湧きます。
そんな思いから「追憶」というタイトルをつけました。


蔵元写真館 「追憶」-1



「清市大志を持つ」  大正15年(1926)  後方左から二人目



「初代清市成人記念」 大正15年(1926)  後方左


愛知県碧海郡上郷村桝塚、貧乏な小作人であり、また村の床屋と屋根拭きとして細々と生活していた野田弥市に長男清市が明治39年(1906)10月19日に産声を上げた。清市は兎唇(みつくち)で、すぐに縫い合わせをしたが、一生その傷跡は残った。子供時代、その兎唇と貧乏は彼自身の心を傷つけた事は確かであった。
明治39年生まれの清市にはその後生まれた14人の兄弟(内6人は死産又は生後まもなく死亡)があり、彼は尋常小学校卒業と同時に、今度は口減らしと現金収入の為に、肉体労働の人夫仕事に出された。
この骨太の体はこの肉体労働の賜物である。


有ること難し。 店主